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京都大学文学部 東洋史研究室内
東洋史研究会

電話:075-753-2790

東洋史研究会大会

 

2020年度 東洋史研究会大会

日 程:2020年11月1日(日)

時 間:午前10時~午後5時

会 場:Zoomで実施します(下記「参加方法」を参照ください)

オンラインでの開催にあたって、京都大学文学研究科附属文化遺産学・人文知連携センターの協力を得ています。

発表題目
午前の部  
小野木 聡 「唐宋における台参制度の展開」
鷲尾 祐子

「里から里・丘へ――秦漢から三国呉にかけての居民管理制度の変遷」

倉田 明子 「宗敎から見る香港社会――キリスト敎を中心に」
午後の部(1)  
伊藤 隆郎

「マシュハド・レザー廟図書館所藏のアラビア語文書集成について」

阿部 尚史 「イランにおける旧王家祖廟存続の試み――18,19世紀のシェイフ・サフィー=アッディーン廟 」
小野 容照 「中村屋の林圭――3・1独立運動の国際的ネットワーク」
午後の部(2)  
古松 崇志 「金国の祭天儀礼と祖先祭祀 」
岡  洋樹 「北元から清へ――清朝の外藩統治形成の歴史的経緯」
桃木 至朗 「憲章時代(10~14世紀)大越=安南国家の中華世界への自己定位」
   

参加方法

① 大会への参加にはWeb上での事前登録が必要です。登録申請フォームには下記のアドレスまたはQRコードからお入りください。 なお参加は無料です。どなたでも参加できます。
https://forms.gle/oZcH3k3gZuBQCYTH7

 

 

② Zoomを初めてご利用なさる方は、アプリのインストールが必要になります。事前に以下のリンクからダウンロードの上、インストールしていただければ幸いです。
・PCから接続される方はこちら
・iphone/ipadで接続される方はこちら
・Androidで接続される方はこちら

 

③ 申請フォームはこちらからお入り下さい。締め切りは10月26日(月)です。

 

④ 発表は午前の部、午後の部(1)、午後の部(2)に分かれます。質問は随時ウェブ上の質問フォームを通して受け付け、各部の最後に報告者から回答いたします。

 

⑤ 当日使用するZoomウェビナー会場、発表者のレジュメ、質問フォームには、すべて当日のみ公開する「専用サイト」からアクセスしていただきます。「専用サイト」のアドレスは、申請フォームにご入力いただいたメールアドレス宛に後日お送りいたします。

 

発表要旨

   唐宋における台参制度の展開

 

  小野木 聡

  (大谷大学文学部助教)

 

唐代と宋代には官人が御史に対して行う「台参」と呼ばれる儀礼が存在した。唐代の台参は京兆尹など特定の官職にある官人が自身の就任時や御史大夫・御史中丞の就任時に御史台へ赴き、御史に参謁する儀礼とされる。一方、宋代の台参は朝見・辞謝のために参上した官人が朝堂で御史に参謁する儀礼とされる。このように唐代と宋代の台参は、儀礼が行われる場所や状況などの点で異なっていたものの、官人が御史に参謁する点は共通しており、両者の間には制度上の連続性が想定できる。

しかしながら、先行研究では唐代と宋代の台参が別個に検討されており、唐代から宋代に至る台参制度の継承関係は十分に解明されていない。そもそも唐代史では、唐代の制度が把握できれば十分であり、その後の展開には関心が寄せられてこなかった。宋代史においては両者の関係に言及する研究もあるが、唐代の台参に対する誤解や五代の台参に対する検討の欠如などの問題が見受けられ、十分な検討がなされているとは言い難い。唐代と宋代の台参の関係が未解明であることで、唐代と宋代のいずれにおいても検討の範囲が狭まっている。そのことにより、各時代の台参について正確な把握が困難になっている。

そこで本報告では、唐・五代・宋の台参を検討した上で、唐代から宋代に至る台参制度の展開を明らかにする。これによって、唐代と宋代の台参について不足する情報を相互に補い、両者の実態に迫りたい。

 

 

  里から里・丘へ

  ―秦漢から三国呉にかけての居民管理制度の変遷―

 

                  鷲尾 祐子

               (立命館大学非常勤講師)

 

漢から三国時代にかけての長沙(長沙郡臨湘県・臨湘侯国)における居民管理制度の変化を、長沙五一廣場より出土した後漢の簡牘(和帝~安帝)と走馬楼より出土した呉簡(主に孫権黄龍・嘉禾年間)にみえる里・丘の実態によって論じる。里は本来、人身把握・徴税・徴発など統治の根幹をなす職務がなされる場であるが、その完遂は人がその里に居住していることによって保証されていた。人の把握を確実にするため、壁に囲まれている邑中のみに人を居住させる制度が存在した。そして居住地である里こそが人の身元の情報として最も重要であった。しかし五一廣場簡牘の公文書では、人の居住地は亭部・丘によって示され、里は籍の編成単位(所属)として見えるがそれは居住地ではないことが多く、所在と所属とが分裂している実態が窺える。それでも所属の里は依然として身元表示に用いられており、その責任者は依然として人身把握・徴税などを負担している。一方、走馬楼呉簡に表れた状況では、所属の里の存在はいっそう希薄であり、身元表示には所在を示す言葉(丘など)が用いられるようになり、人身把握や徴税などの業務も里の責任者以外が負担するようになっている。そして、同郷では一里あたりの徴発可能戸数が近似する数になるよう調整して里を編成していることから、所属の里が「徴発の単位」と化していることが明らかである。そして、呉簡において所在を表す語によって身元が表示されていることと、丘魁がかつての里の責任者の任務の一部を負担していることは、統治する側が所在による人身把握を志向していたことを表している。

 

 

     宗教から見る香港社会

    ―キリスト教を中心に―

                      

   倉田 明子      

    (東京外国語大学大学院総合国際学研究院准教授)

 

国家安全維持法の施行を機に、香港社会は急激に変化しつつある。特に目立つのが、これまで香港社会が享受してきた自由の喪失である。「自由」は、昨年2019年の一連の香港の抗議活動はもちろん、過去の香港の社会運動における重要なキーワードであった。言論の自由や集会結社の自由といった基本的人権に関わる「自由」の防衛が、近年の香港の社会運動で強く意識されてきたことは間違いない。そうした自由の中には信教の自由も含まれる。これまで香港ではキリスト教・イスラム教・法輪功なども弾圧されることはなく、高度な信教の自由が存在してきたが、それは歴史的に積み重ねられてきたものであり、中国本土との対比において「自由」度をはかるバロメーターの一つともなってきた。政府による社会福祉が限定的であった香港社会において、宗教は多くの場合、セーフティネットを提供する慈善団体や教育機関の担い手として社会に根付いてきた。キリスト教などの宗教組織や宗教者、信仰者による自発的な相互扶助意識は、近年の社会運動の現場でもしばしば顕在化する。本発表では、キリスト教を主に取り上げながら、香港社会における宗教の役割の歴史的経緯と、現代的な意味について考察する。

 

 

     マシュハド・レザー廟図書館所蔵のアラビア語文書集成について

 

   伊藤隆郎

    (神戸大学大学院人文学研究科准教授)

 

 本発表で取り上げるのは、イラン・マシュハドのレザー廟図書館に所蔵される一写本(MS. 4414)である。同図書館の目録では、この写本は、ティムール(1405年没)伝の著者として知られるイブン・アラブシャー(1450年没)の文書集成(munshaʾāt)とされている。管見の限り同写本がこれまでに研究されたことはなく、かねてより興味をもっていたところ、杉山雅樹氏のご厚意により、最近そのコピーを入手することができた。未だ写本そのものを実見しておらず、調査の途中ではあるが、判明した限りのことについて報告しようと思う。

 写本の大きさは、目録によれば、1葉が横約13センチメートル、縦約18センチメートルである。首尾が欠けているものの、保存状態はよく、108葉からなる。1頁あたりの行数は13から16とまちまちで、書体はナスフ体、黒インクで書かれている。

 内容は、任命書、結婚契約書、私信などマムルーク朝領内で書かれた様々なアラビア語文書の写しである。収録文書は約70点だが、正確な数を把握するのは難しい。錯簡が生じているだけでなく、キャッチワードの書かれていない葉が多いため、順序の復元が容易ではないからである。

 またこの写本は、目録にある通り、たしかに「文書集成」ではあるが、イブン・アラブシャーの名前はそのどこにも見当たらない。これが彼に帰された理由は判然としないが、著者は彼ではなく、西暦14世紀前半に活動した別人だと考えられる。

 

                                

    イランにおける旧王家祖廟存続の試み

     ―18,19世のシェイフ・サフィー=アッディーン廟―

 

   阿部 尚史

             (お茶の水女子大学基幹研究院人文科学系助教)

 

西アジア・中央アジアのイスラーム神秘主義教団の宗教施設に関する研究は、日本も含む世界各地で精力的に進められている。イランを代表する教団施設としては、北西部アルダビールにあるシェイフ・サフィー=アッディーン廟が挙げられる。ただし、この廟に関する歴史研究は、廟の宗教的社会的な権威が顕著な13世紀モンゴル支配期から、17世紀前半までが大半を占め、それ以降はほぼ未着手である。18世紀以降この廟が社会的影響力を喪失したことも、研究関心が低調な理由である。実際に、西アジアの宗教施設研究を広く見回しても、影響力を失った時期を対象とした研究は乏しい。

そこで本報告では、王権などの手厚い庇護を失った、見方によれば「衰退期」にある宗教施設がいかにして存続したのか、サファヴィー朝滅亡(1722年)後のサフィー廟を例にして、廟の多様な交渉(政治権力および地域社会との交渉)に注目して論じる。この廟は18世紀の混乱期に興亡する時々の政治権力と素早く交渉することで、寄進財産(ワクフ財産)にかかわる特権の保全や廟運営上の秩序維持を図っていた。さらには、廟は地域社会の多様な人々と、廟に蓄積された証書類や財産目録を提示しながら交渉をする中で、廟のワクフ財産を保持しようとしていた。こうした実践を分析すると、財産証書を保全する伝統を活かしながら、サフィー廟という宗教施設が存続を試みていた主体的な戦略の一端を読み取ることができるだろう。

 

 

                     中村屋の林圭

―3・1独立運動の国際的ネットワーク―

 

    小野 容照

     (九州大学大学院人文科学研究院准教授)

 

 民族自決を議題の一つとするパリ講和会議の開催を背景として、朝鮮人独立運動家はさまざまな独立宣言書を作成した。そのなかで最も著名なのは崔南善が起草した独立宣言書であり、この宣言書を手にした民衆たちが朝鮮全土でデモ行進を繰り広げたのが3・1独立運動である。当時作成されていた宣言書の多くが民族自決に言及しながら国際社会に向けて独立をアピールしているのに対して、3・1独立宣言書は朝鮮人に向けて書かれ、朝鮮半島内でのみ配布された。だが、このとき崔南善は宣言書と同時に、日本政府とアメリカ大統領ウィルソン宛の文書も作成し、朝鮮への民族自決の適用を要求していた。崔南善はこれらの文書を国際社会に発信するために、盟友である林圭を日本に派遣した。東京に渡った林圭は、警察の厳重な監視のなか、崔南善から託された文書の郵送に成功する。その際、崔南善と林圭が東京での活動の拠点に選んだのが、新宿のパン屋・中村屋であった。中村屋はたんなるパン屋ではなく、松井須磨子ら当時の文化人たちが集うサロンとしての顔を持ち、またイギリスの要請を受けて日本外務省によって国外追放に処されようとしていたインドの独立運動家R・B・ボースを匿ったことでも知られる。林圭が文書の発送の準備をしたのも、かつてボースが身を隠したのと同じ部屋であった。本報告では、崔南善と林圭が中村屋を計画の拠点に選んだ背景や、朝鮮人と中村屋との関係などを考察する。  

 

 

   金国の祭天儀礼と祖先祭祀

 

      古松 崇志

                (京都大学人文科学研究所准教授)

 

 12世紀前半、契丹の東北辺境より勃興した女真人が建てた金国は、精強な騎馬軍事力を武器に契丹・北宋をあいついで滅ぼし、マンチュリア・南モンゴル・中国本土北部を支配するに至った。金国の支配体制については、建国当初の按出虎(アルチュカ)水完顏(ワンヤン)部を中核とする部族連合から出発して、契丹や北宋の制度にならった集権的な統治制度を次第に確立していく発展過程を見いだすことができるが、從來の研究では女真の支配者集団が中国本土に進出するなかで漢化していく側面を強調する傾向にあった。北方の狩猟・遊牧民に出自をもつ諸王朝の研究がおおきく進展した現在では、史料が少ないために依然研究の立ち遅れている金国の歴史についてのこうした理解は、再検討すべき余地が少なくない。

 そこで本発表では、金国の王権や支配体制を考究する題材として礼制をとりあげ、なかでも王朝儀礼の枢要な位置を占める祭天儀礼と祖先祭祀に焦点を当てる。祭天には「拝天」と「郊祀」があり、祖先祭祀には「原廟」(御容をまつる廟)、「太廟」、「山陵」があって、女真独自の儀礼(拝天)、契丹の影響を受けた儀礼(拝天・原廟・山陵)、中国王朝の制度(唐・宋制)に由来する儀礼(郊祀・太廟)が混在している。これらを詳細に検討することをつうじ、金国の北方遊牧王朝の系譜に連なる性格と中国王朝の制度の導入によるその變容の過程について、礼制に即して具体的に明らかにすることを試みたい。

 

 

北元から清へ

―清朝の外藩統治形成の歴史的経緯―

 

 岡  洋樹

(東北大学東北アジア研究センター教授)

 

 大清国の国家構造の顕著な特徴として「外藩」と呼ばれる統治カテゴリーの存在を挙げることができる。「外藩」は、「外なるモンゴル」というそのモンゴル語名称から知られるように、満蒙関係の展開の中で、モンゴル統治の枠組みとして形成された。近年満蒙文檔案史料に基づく研究の蓄積により、その制度的諸要件が服属以前の北元末期のモンゴルに由来することが明らかにされつつある。この事実は、外藩の歴史的性格を初期の満蒙関係のモンゴル的文脈において捉えつつ、清朝治下におけるその変質を議論する必要があることを示す。そこで本発表では、外藩統治の制度的要件の形成過程を規定した満蒙関係の論理を考察したい。

 この時期の満蒙関係は、マンジュとモンゴルという二つの国家の関係として展開したのではなく、マンジュがモンゴル諸集団と個別に関係を集積していく過程であった。本発表では、清初期から康熙前期の満蒙文檔案を用いて、入関前のマンジュとモンゴル諸集団の関係が、双方の諸王の集団的関係として、モンゴル的な手法と形式により構築され、さらに崇徳期から順治・康熙朝にかけての外ハルハの関係にも同様の手法が採られていたこと、しかし入関後それは次第に形式化し、モンゴル諸王の集団的な意志決定のあり方は外藩統治の枠内で維持されながらも、その全体が清の皇帝単独の支配の下に従属させられていったことを明らかにする。

 

       

    憲章時代(10~14世紀)大越=安南国家の中華世界への自己定位

 

   桃木 至朗

                (大阪大学大学院文学研究科教授)

 

 19~20世紀に成立する近代ベトナムの源流となった国家は、10世紀に現在の北部ベトナムで成立し、のちに南方に領土を拡大したものである。この国家が大越という帝国を自称する一方で安南国として中華帝国の冊封を受けるという二面性に着目する場合、筆者はこれを「大越=安南国家」と呼んできた。本報告では、この大越=安南国家が、「華南に割拠・自立した藩鎮のひとつ」から出発して「中華世界の南朝」など独自の国制と国家意識を形成してゆく10~14世紀(西暦1000年前後の数世紀間にユーラシア周縁部で共時的におこった国家統合の進展を比較したリーバーマンが言う「憲章時代」つまり近世以降の歴史の原型となる「国のかたち」が定まった時代)に、現実の中華世界やその歴史・古典の中に自己をどう位置づけようとしたかを探る。国号と天下意識、疆域と地方支配、修史などこれまでも論じてきた切り口以外に、官爵と法制、都城プランや国家祭祀などについての最近の学界の成果も取り込みながら、自国を中華のどの時代になぞらえるか(同時代か一つ前か、それとも漢代やそれ以前の古典の世界か)における重層性という観点を重視して、大越=安南国家の直線的とはいえない模索の歴史を描き出したい。