東洋史研究会大会
2024年度 東洋史研究会大会
日 程:2024年10月26日(土)
時 間:午前10時~午後5時
会 場:京都大学文学研究科 第3講義室 ※オンラインも併用します。
午前の部 | 午前10時~12時 |
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徐 璐 | 「近代満洲の漢字新聞とその読者 」 |
持田 洋平 | 「20世紀前半のシンガポールにおける「公衆衛生」と移民管理の連結―――移動式屋台とスラム地区の管理行政を中心に―――」 |
倉本 尚徳 | 「隋帝室と定州仏教―――特に煬帝の文帝顕彰と関連して―――」 |
午後の部(1) | 午後1時30分~2時40分 |
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濱本 真実 |
「19世紀ロシア帝国東部の隊商交易とメッカ巡礼 」 |
山口 元樹 | 「20世紀前半のカイロにおけるインドネシア人留学生――移動・生活・学習――」 |
午後の部(2) | 午後3時10分~4時55分 |
渡辺 健哉 | 「羽田亨による『金史』の理解をめぐる一考察」 |
渡辺 美季 | 「琉球の対日文化外交と程順則」 |
辻 正博 | 「日唐関津制度比較の試み」 |
参加方法
① 大会への参加にはWeb上での事前登録が必要です。会場で参加される方も同様です。
どなたでも参加できます。
なお、会場で参加される方は、会場参加費1,000円(資料代を含む)をいただきます。
登録申請フォームには下記のアドレスまたはQRコードからお入りください。
締め切りは10月23日(水)です。
https://forms.gle/iT25srS6s97y6yTk6
② 発表者のレジュメは、対面参加者には紙媒体で配布、オンライン参加者には当日のみ公開する「専用サイト」からアクセスしていただきます。「専用サイト」のアドレスは、申請フォームの入力後、自動送信されるメール内で通知致します。
③ 大会終了後、懇親会を開催致します(会費4,000円)。 多数ご参加ください。
発表要旨
近代満洲の漢字新聞とその読者
徐 璐
満洲における近代的新聞は、日露の満洲進出にともなって誕生し、最初のものが外国人の手によって作られた。辛亥革命後、中国人による創刊が多々見られるようになり、一九二〇年代に入ると、軍閥が後押しするものも簇出した。外務省の新聞調査によれば、満洲の漢字新聞は一九〇六年にわずか三、四種だったから、一九三二年に四〇種ほどに膨脹したという。
一方、新聞の誕生は読者の出現を促した。近代満洲における漢字新聞の発展状況に鑑みると、相応の規模を持つ、多元的な読者層が存在していたと考えられる。これまでの満洲新聞史研究では、各新聞の発刊や経営に焦点が当てられてきたが、人々がどのように新聞を認識し、読んでいたのかという基本的な視点が依然として欠落している。
読者層は新聞史を語る上で重要な基本課題であり、その解明なくしては新聞の価値と影響力に対する検討を始めることはできない。本報告は、代表的な漢字新聞の紙面、外務省の新聞調書に加え、満洲に生きた知識人の日記・手記、新聞経営者の回顧録などに基づいて、近代満洲における新聞読者の誕生と変容について考察する。具体的には、まず近代満洲における新聞の発展史を概観し、各時期の新聞発行規模から読者規模の変遷を考える。次に、読者になる条件であるリテラシーと購読に必要とされる経済的状況を簡単に確認し、読める、買える読者の範囲を明確にする。最後に、知識人、商人、女性、下級労働者など各階層の読者がいかに新聞を認識して受け入れてきたかを考察する。これにより、新聞が満洲社会にどのように受容され、影響を与えていったかという過程を解明することができる。
20世紀前半のシンガポールにおける「公衆衛生」と移民管理の連結
―移動式屋台とスラム地区の管理行政を中心に―
持田 洋平
本報告では、20世紀前半のシンガポールにおいて貧困層の華人(中国系移民)に対する管理制度が、「公衆衛生」行政と結びつきながら、いかに発展してきたのかという点について、特に移動式屋台とスラム地区の管理行政を中心として議論する。
報告者はこれまで植民地統治期のシンガポールの移民・出入境管理制度に関する研究を進めており、1900年代後半において住居と生活・労働手段を持たない貧困層の華人が「浮浪者」としてカテゴリ化され、警察による逮捕や監獄への収容といった、実質的に犯罪者と同等の管理を受けることになったことを明らかにしてきた。
その後、1910年代から1930年代において、「浮浪者」とみなされた人々に対する統治は警察行政のみならず、「公衆衛生」(public health)行政においても積極的に取り組まれていくこととなった。具体的な根拠が見つからなかったにも関わらず、「浮浪者」たちが「不快」・「迷惑」であることは様々な病気の蔓延と相関するとみなされ、衛生的な都市空間を維持するという名目で強制的な排除措置が行われた。これは具体的には、1920年代から1930年代前半における移動式の屋台やスラム地区の排除などの形で進められた。
本報告では、現地社会において「浮浪者」に関する問題が認識され、「公衆衛生」行政として前述した取り組みが進められていく過程を詳述する。同時に、これらの過程を通して、明確な根拠を持たない「不快感」・「迷惑」を「公衆衛生」上の問題とみなし、それを強制的に排除していく、いわば「清潔感のポリティクス」とでもいうべき統治のありかたが、植民地社会において生み出されてきたことを指摘する。
隋帝室と定州仏教
―特に煬帝の文帝顕彰と関連して―
倉本 尚徳
定州は北魏の時代にすでに仏教の盛んな土地となっており、また軍事的な要衝でもある。楊堅(隋の文帝)は、かつて北周末に定州総管となり、この地に赴任した。藤善真澄氏によって指摘されているように、この定州は「真人」である文帝が興った場所として神聖化された。実際に、開皇の初めには文帝の重臣が地方官として赴任し、大規模な造寺などの仏教復興事業が行われた。それらの事業は隋のいくつかの石刻として残されており、北周の廃仏をうけた仏教復興の旗手として文帝の顕彰がなされている。
一方煬帝は、清貧な生活を送る孝子として、文帝や独孤皇后に対するアピールが功を奏し、皇太子位簒奪に成功し、文帝死後に帝位に就いた。しかしその治世後半には、定州を含めた山東の地は高句麗遠征や運河の開削などで過重な負担がかけられ、大業九年の楊玄感の乱を筆頭に、多数の反乱が起こった。この楊玄感の乱が起こった同じ年、煬帝は高句麗遠征に際してこの地に立ち寄り、北周末に父と共にここに滞在した時期を懐かしみ、この地を高陽郡と改め、隆聖道場を建て、文帝のために釈迦像を造った。この地の仏教と隋帝室との強い結びつきをうかがうことができる。本発表では隋代の定州における造寺・造像活動の具体相について、文帝の顕彰と関連付けて検討してみたい。
13~14世紀メディナの裁判官職とスンナ派・シーア派関係
大津谷 馨
アラビア半島西部に位置するイスラームの聖地メディナは、10世紀後半以来、シーア派の一派を信奉する預言者ムハンマドの子孫たちによって支配されていた。これに対し、13世紀後半以降、マムルーク朝は、聖地の庇護者としてメディナでのスンナ派勢力拡大を進めようとした。このことについては、先行研究の中で、マムルーク朝宮廷の宦官と密接な人的関係を持つメディナの聖域守護者たちやメディナのスンナ派長期滞在者たちが協働し、シーア派を信奉する聖地の支配層に対抗したとされてきた。
先行研究については、マムルーク朝による介入が強調される一方でメディナ現地の人々の主体性の評価が不十分なことに加え、スンナ派とシーア派が二項対立の図式で扱われてきたという問題がある。また聖地社会の学者を代表する職の一つである裁判官職の変遷も、聖地におけるシーア派・スンナ派関係を考えるうえで重要だが、これについても十分に検討されていない。
本報告では、13~14世紀を中心に、メディナの裁判官職設置状況をめぐる変遷や、裁判官職に関連するスンナ派・シーア派関係についての記述を分析する。それによって、先行研究で強調されてきたマムルーク朝の主体性やスンナ派とシーア派の対抗関係とは異なる視点を提示する。またメディナに類似した支配構造を持ちつつもメディナとは異なる展開がみられるメッカの事例と比較することで、研究蓄積の浅い両聖地史研究に貢献したい。
19世紀ロシア帝国東部の隊商交易とメッカ巡礼
濱本 真実
中央アジアからのメッカ巡礼ルートの一つとして、古くから、カスピ海北岸の港市アストラハンを経由する北回りの行程が知られていた。しかし、多くの中央アジアからの巡礼者にとって、北回りルートが有力な選択肢となったのは、1803年にロシアがブハラからのメッカ巡礼者にロシア領通過を正式に許可してからのことである。ロシアは巡礼者にパスポートを発行する制度を整えた。特に1815年のナポレオン戦争終結後、クリミアから黒海を渡り、イスタンブルを経てヒジャーズに向かうメッカ巡礼ルートが安全に利用できるようになると、多くの巡礼者がロシア経由でメッカに赴くようになった。しかし、1830年代に入ると、ロシアは政策を大きく転換し、外国のメッカ巡礼者のロシア領通過を禁じた。
当時のメッカ巡礼者は隊商に同行する場合が多く、19世紀前半のロシア経由のメッカ巡礼増加の背景には、ロシアによる公式の入国許可ばかりでなく、同時期に起こった、カザフ草原東部の諸都市と東西トルキスタンの間の隊商交易の急速な発展があったと考えられる。この隊商交易とそれに伴う巡礼には、イランから参入する者もいた。
ロシア経由のメッカ巡礼に関しては、蒸気船と鉄道によって巡礼が大衆化した19世紀末から20世紀初頭を対象とする研究が近年数多く発表されているが、19世紀前半からロシアの中央アジア征服に至る時期ついては詳らかでない部分も多い。
本報告では、19世紀初頭から半ばまでのロシア・中央アジア間の隊商交易の発展を辿りつつ、この時期のロシア経由のメッカ巡礼の諸側面を明らかにすることを目指す。
20世紀前半のカイロにおけるインドネシア人留学生
―移動・生活・学習―
山口 元樹
インドネシア(当時のオランダ領東インド)からエジプトのカイロへの留学は、20世紀前半、とりわけ1920年代になってから活発になる。20世紀前半のカイロにおけるインドネシア人留学生について、従来の研究では彼らがインドネシアのイスラーム運動やナショナリズム運動にもたらした思想的影響の重要性が指摘されてきた。しかし、それらの研究が取り上げてきたのは、数名の著名な留学生や留学生団体のごく一時期の活動に限られている。本報告では、20世紀前半のインドネシア人によるカイロ留学の意義を検証するために、1920年代後半から30年代末までの時期を中心に、その全体像を明らかにすることを試みる。具体的に分析するのは、インドネシアからカイロまでの移動、留学先での生活、そしてそこでの学習内容についてである。特にカイロでの学習に関しては、インドネシア社会が期待したものと留学生の実際の経験との相違に注目する。主な史料として用いるのは、インドネシア語(ムラユ語)の新聞・雑誌とオランダの公文書である。前者にはカイロ留学に関するインドネシア人自身の記録が、後者にはカイロのインドネシア人留学生を対象としたオランダによる複数の調査報告が見いだされる。
羽田亨による『金史』の理解をめぐる一考察
渡辺 健哉
1936年(昭和11年)1月14日、午前9時20分、羽田亨(京都帝国大学教授)を乗せた宮内省差し回しの自動車が、神田の学士会館を静かに出発した。この日皇居では、新年恒例の「講書始の儀」が行われることになっており、羽田は進講者の一人であった。午前10時24分、羽田による「金史巻七、世宗本紀、大定十三年四月の条」と題する進講が始まった。
東洋史研究会の初代会長である羽田亨(1882~1955)は、中国史・北アジア史・中央アジア史に関する研究者として、また第二次世界大戦後に活躍するアジア史の研究者を数多く育成した教育者として知られている。1938年から1945年まで、京都帝国大学の総長に任じられ、極めて困難な時期に大学運営の舵取りを担ったことも特筆されよう。
羽田が進講者となった「講書始の儀」とは、天皇が斯界の第一人者から講義を受ける宮中の行事である。Wikipediaで「講書始」の項目を見れば、進講者と進講題目の一覧を確認することができる。
この進講題目の一覧から明らかなように、漢書担当の進講者の多くが経書を取り上げるなか、前記した羽田の進講題目は大いに趣きを異にする。
本報告では、この羽田の進講の内容を詳しく紹介する。そのうえで、羽田はなぜこの時期に、こうした内容の進講を行ったのか、その意図するところを考える。そして最後に、昭和初期の宮中と羽田との関係、さらには政治と学問との関係について考究してみたい。
琉球の対日文化外交と程順則
渡辺 美季
明清交替の動乱を経て一六八〇年代に清が支配を確立し、琉清関係が安定化すると、琉球は儒教を中心とした中国の学問・文化の習得・吸収に力を注ぎ、それらを組み込んだ国家体制を整えはじめた。その主な担い手となったのは久米村人と称される官人集団である。久米村人は、儒教・中国語・唐様書・漢詩などを学んだ上で、首里王府の対清外交と文教政策に専従したが、一方で対日外交においても、一七一四年に久米村人の程順則と曽歴が将軍に対する国王使の一行に加えられて以降、久米村人二名の江戸参府(慶賀使・謝恩使)への参加が恒例となった。
江戸への使節派遣は一六四四年から一八五〇年までに計一七回実施されたが、結果的に最後となった一八五〇年の参府では、王府が「かつて程順則が参府した際に、その詩と書が日本で賛嘆された」ことを挙げて、今回派遣する久米村人にも同様の働きを求め、「国の名折れにならないように」と指示しており、江戸参府に久米村人を派遣して中国文化(漢詩・唐様書)を発揮させ、日本における「国の名(名誉)」に貢献させようとする王府の姿勢がうかがえる。
本報告では、こうした王府の日本に対する政治的姿勢(すなわち対日文化外交)がどのように形成されたのか、またその中で程順則がどのような役割を果たしたのかを、当時の琉清関係・薩琉関係をはじめ、薩摩-幕府関係や清・日本の文化状況などと合わせて検討する。その上で清―琉球―日本(薩摩・幕府)の関係性の歴史的意味も改めて考えてみたい。
日唐關津制度比較の試み
辻 正博
政治權力が人びとの自由な移動に對して何らかの制限を設けることは、程度の差こそあれ、古來、さまざまな歷史世界で行われてきたことであろう。とりわけ前近代の中國では、人びとの移動の自由が國家によって制限される傾向が顕著であった。その具體的な手法は法や制度として明文化されることが多かったため、今に殘る史料からその一部を窺い知ることもできる。
本發表では、主要交通路上に置かれた關津がどのような役割・機能を果たしたのかに着目して、政治制度史の立場から日唐の比較を試みたいと思う。通常、關所は交通の要所もしくは國境、津渡は渡河地點に置かれたことから、國家が關津によって人びとの移動を管理・制禦し得たであろうことは容易に推測できる。しかし、關津を經由せずに別ルートにより通り拔けることも、不可能ではなかった。にもかかわらず、關津を經由して移動することが通常行われたのは、その移動が國家によって公認される必要があったためであると考えられる。見方を變えれば、國家は關津に治安維持の一翼を擔わせていたということになろう。一方、關津の立地を考慮すれば、それに軍事的機能を見出すことも可能である。實際、日唐の歷史的大事件において、關津が軍事作戰上、重要な役割を果たしたことは少なくない。ただ、それが關津制度に期待された本來の役割であったか否かについては、日唐雙方について檢討してみる必要があろう。