東洋史研究会大会
2026年度 東洋史研究会大会
日 程:2026年10月31日(土)
時 間:午前10時~午後5時
会 場:京都大学文学研究科 第3講義室 ※オンラインも併用します。
| 午前の部 | 午前10時~12時 |
|---|---|
| 張 子康 | 「清代琉球の冊封と河口通事の役割」 |
| 古結 諒子 | 「下関条約と「境界」の再編――日清修好条規から日清通商航海条約へ――」 |
| 井上 直樹 | 「新羅軍団考――九誓幢部隊編制に関する試論――」 |
| 午後の部(1) | 午後1時~2時45分 |
| 大津谷 馨 | 「13世紀後半から15世紀のメッカ・メディナにおける長期滞在者・移住者――歴史家とその人的ネットワーク――」 |
大塚 修 |
「イラン概念考――前近代イスラーム時代における形成と展開―― 」 |
| 堀内 香里 | 「内陸アジアにおける十進制組織について――清代モンゴルのソムと十家を中心に――」 |
| 午後の部(2) | 午後3時15分~5時 |
| 佐藤 仁史 | 「近代江南沿海部の清丈と官民対立――民国初年江蘇南匯における沙田・塩田問題を中心に――」 |
| 古勝 隆一 | 「中國中古學術の原動力としての論と義」 |
| 吉本 道雅 | 「『史記』の春秋史」 |
参加方法
① 大会への参加にはWeb上での事前登録が必要です。会場で参加される方も同様です。
どなたでも参加できます。
なお、会場で参加される方は、会場参加費1,000円(資料代を含む)をいただきます。
登録申請フォームには下記のアドレスまたはQRコードからお入りください。
締め切りは10月28日(水)です。
https://forms.gle/2vrLNyM3bFT1YVqD9

② 発表者のレジュメは、対面参加者には紙媒体で配布、オンライン参加者には当日のみ公開する「専用サイト」からアクセスしていただきます。「専用サイト」のアドレスは、申請フォームの入力後、自動送信されるメール内で通知致します。
③ 大会終了後、懇親会を開催致します(会費4,000円)。 多数ご参加ください
発表要旨
清代琉球の冊封と河口通事の役割
張 子康
琉球国王の冊封は、近世琉球にとって王権を支える政治的契機である一方、使節団の受け入れと評価貿易によって莫大な財政負担を伴う事業であった。本報告では、道光十八年(一八三八)の尚育王冊封を中心に、康熙五十八年(一七一九)・同治五年(一八六六)の事例も参照し、その実務を担った福州の河口通事(土通事)の役割を検討する。河口通事は福州に所在し、琉清関係の実務を担った清朝側の通事である。平時には琉球使節の往来や福建諸衙門との連絡に携わり、冊封時には使節団に加わり琉球へ渡った。冊封の政治的必要性と経済的負担との矛盾のなかで、河口通事はしばしば琉球側の利益に配慮し、冊封使をはじめとする使節団と琉球側との間で仲介・調整にあたった。その働きは冊封を円滑に進め、琉球側の負担を抑えるうえで重要であった。具体的には、冊封使の渡航に先立つ福州での準備から、琉球国内での儀礼・評価貿易に至るまで、冊封の各段階における河口通事の働きを復元するとともに、それを支えた河口通事と琉球側との人的・経済的な結びつきを示す。そのうえで、冊封を儀礼や制度としてのみ捉えるのではなく、利害と統制の狭間に立つ実務者たちの交渉と調整の集積として再構成し、琉清間の冊封関係がミクロなネットワークによって運用・維持された過程を明らかにする。
下関条約と「境界」の再編
―日清修好条規から日清通商航海条約へ―
古結 諒子
本報告は、日清修好条規(一八七一)が担っていた役割が、下関条約(一八九五)と日清通商航海条約(一八九六)とに振り分けられた過程を明らかにする。その際、国境線だけでなく、土地の帰属や人・商品・船舶の移動を規律する通商条約が、日清間の「境界」を構成した点に注目する。
日清戦争の結果締結された下関条約に関する研究は、清による朝鮮の独立自主の確認、清から日本への遼東半島や台湾・澎湖諸島の割譲、軍費賠償金の支払い、新規通商上の権利など、個々の条項とその帰結に即して蓄積されてきた。このうち第六条は日清間の従来の諸条約の消滅と新たな通商条約の締結を定めた。しかし、消滅が確認された日清修好条規・通商章程・海関税則がいかなる役割を担っていたのかという観点から、下関条約を捉え直すことは十分になされてこなかった。日清修好条規は最恵国条款を欠き、双務的領事裁判権を認めると同時に、第一条で「所属邦土」を規定しつつその外縁を地理的に画さない特徴を有した。つまり、同一の条約体系内に、土地の帰属と人・商品・船舶の移動の規律を含む通商条約であった。
本報告は日清修好条規が担っていた役割を出発点とする。下関条約によって土地の帰属の外縁が画される一方、これとは別に、開港場を媒介とした人・商品・船舶の移動の規律も日清通商航海条約のもとで再構成された。こうした下関条約による「境界」の再編を、通商条約の推移を軸に日本側の視点からたどる。
新羅軍団考
—九誓幢部隊編制に関する試論—
井上 直樹
『三国史記』職官志・武官条によれば、統一新羅時代の新羅には、新羅人だけでなく高句麗遺民・百済遺民によって編制された、九部隊からなる九誓幢が存在していたとされる。この九誓幢は、それまでの新羅軍の主力が歩兵のみであったのに対し、騎兵・歩兵を備え、規模においても従来のものを凌駕していた。それゆえ、これまで九誓幢は統一新羅の中核部隊と理解されてきた。しかし、報告者の近年の研究によって、九誓幢のうち、新羅人によって構成された三部隊のみが実戦部隊で、残りの六部隊は形式的・理念的な部隊であったことが明らかとなった。とはいえ、形式的部隊であっても実戦部隊と同様に軍官の定員が定められており、形式的部隊であったからこそ、そこには統一新羅の志向・理念にもとづいた軍官配置(部隊編制)のあり方が反映されていたと考えられる。したがって、九誓幢の部隊編制のあり方は統一新羅のそれを理解する上での重要な指標ともなりえる。従来の研究では新羅の部隊編制は漠然と唐制の影響を受けたと指摘されてきたものの、具体的な部隊編制については解明されてこなかった。そこで本報告では軍官の統属関係や軍官数などを手がかりに改めて九誓幢、さらには九誓幢とも密接に関係したであろう三武幢の部隊編制について試論的検討を加え、統一新羅の兵制史解明の端緒としたい。
13世紀後半から15世紀のメッカ・メディナにおける長期滞在者・移住者
―歴史家とその人的ネットワーク―
大津谷 馨
アラビア半島西部に位置するメッカとメディナは、イスラームの聖地であるがゆえに、世界各地からムスリムが集まる場である。しかし、その中世史については、各都市の支配者である預言者ムハンマドの子孫たちと13世紀以降影響力を伸張させたマムルーク朝との関係の解明に重きが置かれ、様々な史料がどのような特徴を持つのかについての研究はあまりなされてこなかった。とりわけ、史料に数多く収録される長期滞在者・移住者の伝記はほとんど検討されてこなかった。
本報告では、13世紀後半から15世紀を対象に、この時代の主な伝記史料はどのような特徴を持つのか、長期滞在者・移住者の記事にみられる歴史家の人的ネットワークという観点から検討する。まず、予備的調査として、長期滞在者・移住者の出身地についてカイロについての先行研究との比較検討をし、両聖地に固有の特徴を明らかにする。その後、ファースィー、ナジュムッディーン・ウマル・ブン・ファフド、イブン・ファルフーン、サハーウィーといった歴史家たちによって14世紀から15世紀に書かれた伝記史料の特徴について、歴史家と収録される長期滞在者・移住者の関係という観点から明らかにする。これによって、それぞれの著者が伝記史料においてどのような異なる方法で一族のネットワークや知的活動を誇示していたのかを示す。
イラン概念考
―前近代イスラーム時代における形成と展開―
大塚 修
「イラン」とは何か。これは、イラン・イスラーム共和国という国が存在する現在、答えは自明ではないかと思われてしまう問いかけであろう。しかし、この言葉が国号として使われるようになってから未だに100年も経っておらず、それ以前には、この言葉に込められた意味やそれが指し示す地理的範囲は歴史的に大きな変貌を遂げてきていた。前イスラーム時代に起源を持つ「イラン」という語は、イスラーム時代に入ると、アラビア語文献の中で様々な解釈が付されるようになる。その傾向は、アラビア文字でペルシア語が記されるようになった後も変わることはなかった。また、地名が記された地図において「イラン」の範囲が明示されることは決してなかった。一方でこれまでのイラン概念研究では、モンゴル系王朝イルハーン朝(1256~1357年)の時代など、画期となる時代の代表的な事例だけを切り取って、その形成過程についての説明がなされる場合が多く、その概念の複雑さについては捨象されてきた感が強い。以上の問題関心から、本報告では、前近代イスラーム時代に編纂された歴史書、地理書・地図、辞典などを可能な限り網羅的に分析し、この語がどのような過程を経て地理的概念として使用されるようになり、それが後に政治的概念として利用されるに至るまで発展を遂げていくのか、について通時的に明らかにする。なお本報告では、8世紀から、(この概念の意味がある程度確定するようになる)14世紀の文献までを分析対象としたい。
内陸アジアにおける十進制組織について
―清代モンゴルのソムと十家を中心に―
堀内 香里
内陸アジアでは、匈奴以来、人々を十・百・千・万の単位に編成し、それぞれに長を置く十進制組織が軍事動員と統治に用いられてきた。発表者はこの原理が清代モンゴルにもあったと考える。十家ごとに置かれた十家長、一五〇丁からなるソム(佐領)に置かれた佐領章京、六佐領毎に置かれた参領章京の存在がそれを示している。
本発表では、清代モンゴルの十家とソムを取り上げる。周知のとおり、清代については、モンゴル人自身が作成した史料が膨大に残されており、当該社会を内部から検討することが可能である。本発表では、とりわけ旗内で往来した文書を用い、十家やソム、ならびにその長らが日常的に果たしていた機能と役割を検討する。また、旗印務処に提出された名簿を分析し、これらの組織が実際にどのような人々によって構成されていたのかを明らかにする。つまり、摺子に現れる人々の動きと冊子に記録された構成の両面から、その機能と構造との考察を試みる。
本研究は直ちに内陸アジアの十進制組織の全体像を明らかにするものではないが、現地一次史料が豊富に残り、かつ日常的な場面を分析できる清代を取り上げることで、内陸アジアの社会構造の特質を従来とは異なる視角から捉え直すことが期待できる。なお、清代モンゴル史研究においても、ソムについては相当数の研究がある一方、十家の実態はほとんど解明されておらず、本発表はこの点にも寄与するものである。
近代江南沿海部の清丈と官民対立
―民国初年江蘇南匯における沙田・塩田問題を中心に―
佐藤 仁史
本報告は、中国江南地方にありながらフロンティアとしての性格を濃厚に帯びた沿海部における開発と秩序とに関する問題関心に基づき、清末民国初年に行われた清丈とそれに伴って発生した課税問題をめぐる官民対立から、近代江南における秩序変動を分析するものである。
江南の長江河口部に広がる沿海部では、明末清初以降、沖積地の拡大、塩業の衰退、沙田の開墾、移民の流入、海塘・水利事業の展開により、独特の社会構造が生み出された。清代中期以降、沙田地帯の移民有力家族からは科挙資格を有する士人が出現し、彼らは詩文結社や地方公共事業を通じて地域社会への影響力を強めた。清末民初に地方自治制や近代教育が推進されると、その財源として「公有」とされた沙田や善堂・積穀款などの公産が重要な意味を持つようになった。ところが公産設置の対象となった沙田地帯には、開墾・報領・徴税をめぐる地権上の曖昧さが内包されていた。さらに清末民国期の制度変化は、開発過程で形成された地域利害や官民間の矛盾を顕在化させた。
本報告では傅恭弼『清丈竈地蘆課草息請免補価改徴清理費案』(民国間鉛印本、上海図書館蔵、序文は1930年)を主要史料とし、沙田・塩田を分析対象として、どのように清丈が実施され課税が強化されたのか、地域有力者がどのように対応したのかについて検討する。こうした作業を通じて、従来の江南史研究において十分に位置づけられてきたとは言いがたい沿海部を「水域社会」という視点から捉え直し、国家―社会関係の変動を具体的に考察する。
中國中古學術の原動力としての論と義
古勝 隆一
牟潤孫「論魏晉以來之崇尚談辯及其影響」(1966年)は、後漢後期から唐初に至る知的社會において、「談辯」が學術の進展を促したことを論じた重要な研究である。「談辯」とは、「談論」「言論」「講論」「清談」などと史料に現れる、口頭・對面による議論を指す。そこでは「理」の言明が重んじられ、異なる見解を持つ者が互いに論難し、時に勝敗を競った。牟氏は、その淵源を後漢後期の郭泰ら太學生の言論活動に求め、こうした議論が政治のみならず、經學・史學・制度などの諸領域に波及し、中國中古の學術を推進したと考えた。
本發表は、この見通しを繼承しつつ、「談辯」を中古に固有の現象と限定せず通時的な脈絡に置き、南朝に偏りがちな議論を五胡十六國・北朝・隋にまでひろげるとともに、佛教・道教における論辯を視野に收める。そのうえで特に注目するのが、言論の場と、そこから生み出されたテクストとの相互關係である。
ここでいう「論」と「義」は、中國中古に成立した一定のテクストの形態を指す。「論」には三國魏の嵆康「聲無哀樂論」などがあり、「義」には梁の崔靈恩『三禮義宗』などがある。談辯と關わって形成された「論」や「義」は、書寫され、讀まれ、知識層の間に流通・蓄積される一方、講論や論難の場で、ふたたび議論の材料となった。言論がテクストを生み、テクストがさらに新たな言論を促す循環に注目し、談辯・論・義の連動を中國中古學術の原動力として捉えたい。
『史記』の春秋史
吉本 道雅
本報告は、十二諸侯年表序・六國年表序に示された春秋史認識を手掛かりに、『史記』の性格の一端を解明するものである。
十二諸侯年表序は、春秋期を孔子の『春秋』制作の前提となる全き亂世とする。齊・晉・秦・楚などの「五伯」が、もっぱら軍事力によって霸權を握ったことが強調される。六國年表序は、統一に至る秦史を概觀する。齊桓公・晉文公ののち、政權が世族に下逮し、三晉の晉分割、田和の齊簒奪で、「六國」が本格的に開始したとする。
ところが、こうした認識は、春秋史の記述には必ずしも反映されない。周本紀には、晉文公の霸者認證(前六三五)ののち、王子朝の亂・儋翩の亂(前五二〇~前五〇三)を晉が平定したことが見える。秦穆公・楚莊王を霸者とすることはなく、吳・越は言及さえされない。さらに秦孝公の霸者認證(前三四三)などが見える。『史記』がそれを自覺していたか否かに關わらず、晉文公以降、霸者の地位が歷代晉侯に繼承されていたこと、王朝が霸者を認證する春秋期の政治社會秩序が前四世紀まで繼續していたことが示唆される。
目立ちやすいところに置かれた序・論贊は『公羊』など當時の正統的言説に從うが、本文は原資料に語らせる。外向きに示された歴史認識は、原資料に基づく歴史記述と往々にして矛盾するが、それが『史記』の基本的姿勢である。

