事務局
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京都府京都市左京区吉田本町
京都大学文学部 東洋史研究室内
東洋史研究会

電話:075-753-2790

東洋史研究会大会

 

2023年度 東洋史研究会大会

日 程:2023年10月29日(日)

時 間:午前10時~午後5時

会 場:京都大学文学研究科 第3講義室 ※オンラインも併用します。

発表題目
午前の部 午前10時~12時
斎藤  賢 「『史記』戦国史に関する秦系資料の分析 ――秦本紀・秦始皇本紀を中心に――」
河上 麻由子

「五代十国の政治と仏教」

山崎  岳 「招撫考」
午後の部(1) 午後1時~2時45分
和田 郁子

「17-18世紀南アジアにおける東インド会社の現地雇用船員」

小澤 一郎

「19世紀イランの兵員徴用関係写本の検討 ――アミーレ・キャビールの軍制改革をめぐって――」
森平 雅彦 「朝鮮時代のアユ貢納と内水面環境」
午後の部(2) 午後3時15分~5時
石川 照子 「月曜クラブと一土会に集った女性たち――日本YWCAとキリスト教矯風会の女性たちの思想と活動――」
鈴木 秀光 「清代における裁判記録管理の法的意義 ――吏律公式「棄毀制書印信」条、条例を起点として――」
稲葉  穣 「ゴール朝の「都」フィールーズクーフについて」
   

参加方法

① 大会への参加にはWeb上での事前登録が必要です。会場で参加される方も同様です。なお、会場参加には人数制限がありますので、ご希望の方は早めにお申し込みください。
登録申請フォームには下記のアドレスまたはQRコードからお入りください。
参加は無料です。どなたでも参加できます。

締め切りは10月25日(水です。

 

今年は評議員選挙の実施年です。会員の方は、申し込み後にweb投票も忘れずに行ってください。

大会への参加とは別に投票できますので、お手数をおかけして恐縮ですが、できればご投票くださるようお願いします。

https://forms.gle/EXNAbw3M6bF6CaeY8

 

(以下の告知は会員の方のみが対象となります)
【評議員選挙のWeb投票のお願い】
今年は評議員選挙の実施年にあたります。今回も一昨年と同様に、評議員選挙はWebでの事前投票といたします。また、非会員による投票および重複投票を避けるため、やはり一昨年と同様に、今回も記名式の投票とさせていただきます。投票内容についての情報は厳重に管理いたしますので、何卒ご理解賜りますようお願い申し上げます。

評議員選挙の投票フォームにはこちらのリンク、または、下記QRコードからアクセスしてください。

投票期間は9月21日(木)から10月29日(日)の正午といたします。

 

リンク
https://forms.gle/tDDqHb9WEuYvRsP16


QRコード:

 

② Zoomを初めてご利用なさる方は、アプリのインストールが必要になります。Zoomのサポートページからお使いの端末の種類に応じてアプリをインストールしてください。
・PCから接続される方はこちら
・iphone/ipadで接続される方はこちら
・Androidで接続される方はこちら

 

④ 発表者のレジュメは、対面参加者には紙媒体で配布、オンライン参加者には当日のみ公開する「専用サイト」からアクセスしていただきます。「専用サイト」のアドレスは、申請フォームの入力後、自動送信されるメール内で通知致します。

 

発表要旨

 

                『史記』戦国史に関する秦系資料の分析

                 ――秦本紀・秦始皇本紀を中心に――

                       斎藤 賢

 中国最初の帝国である統一秦の成立によって幕を閉じる戦国時代は、経済成長や重大な社会変革、経済・軍事・行政技術の革新が生じた重要な時期であるが、その全体像を把握するには、戦国時代を通時的に記述した現存唯一の資料である『史記』が最重要の史料の一である。しかしながら、『史記』の戦国時代の記述には、紀年の矛盾などをはじめとして、問題が山積しており、史料としての有効な利用を妨げる要因となっている。また、前後の時代である春秋時代や漢代の部分に関しては、『春秋左氏傳』や『漢書』など比較可能な体系的史料があるのに比して、戦国時代の記述については『戦国策』『戦国縦横家書』などの説話史料、及び睡虎地秦簡「編年記」や胡家草場漢簡「歳紀」など部分的に比較可能な史料があるのを除けば、独自の記述が多く、史料的性格についてはなお不明瞭な部分が多く、その解明が待たれる。

 その『史記』戦国部分の記述については、六国年表序に『秦記』を除き、諸侯の史記は失われたと書かれているように、基本的に秦に由来する原資料(秦系資料)を用いたものであろう。ただし、秦本紀・秦始皇本紀・秦関連列伝の間で記述に矛盾・齟齬が認められることからすれば、『史記』が用いた秦系資料は単一ではなく複数存在したと考えられる。
 本発表は、かかる問題意識から秦本紀・秦始皇本紀を中心に、他史料をも参考しつつ、『史記』の利用した秦系資料の特徴を分析・検討する。

 

 

                    五代十国の政治と仏教

                      河上 麻由子

 五代十国史は、近年、新たな研究が次々に発表されている。そこでは、唐末からの連続性に留意した、個別の実証が積み重ねられるのみならず、大枠としては、五代を正統王朝と看做してきたことへの見直しも進められている。『五代史書彙編』(杭州出版社、2004年)や『五代十国墓誌彙編』(上海古籍出版社、2022年)が刊行されるなど、史料を収集するのも容易になった。
 ところが、このような政治史分野における展開に比べ、仏教史は高調とは言い難い。かつては優れた研究が数多く発表されたが、今世紀に入ってからは、五台山と天台・禅(付随する諸分野も含め)に議論が集中してきた。昨年には、中国社会文化学会の2021年度大会シンポジウム「五代・宋代における仏教の展開と伝播」の特集号として、『中国 社会と文化』(37)が刊行され、五代・宋初における中国の禅・天台・法相、契丹・高麗の仏教が取り上げられた。また、『呉越国 10世紀東アジアに華開いた文化国家』(勉誠出版、2022年)が刊行され、その一部は呉越仏教に言及する。しかし、この時代の仏教を概観する研究は未だ不十分である。
 研究の細分化が進んだ時代において、一つの時代を概観することは極めて難しい。とはいえ、政治史側の進展に仏教史側が応じる努力は、継続して行われるべきである。
 本報告は、五代十国期における皇帝・国王や、節度使、その他の在地貴顕が、自らの政治的・経済的基盤を強化・維持するため、仏教がもつ影響力に期待した事例を先行研究によりながら収集し、五代十国期の仏教を概観するための一つの視座を得ることを試みる。

 

     

                       招撫考

                       山崎 岳

 中国は歴史上の早い段階から中央集権体制を確立し、二千年以上にわたってそれを維持してきた。当然、そこに営まれる社会のありかたは、先天的に予定された自然状態ではなく、人為的な条件づけを経てはじめて成り立つものである。本報告が問題とする「招撫」はその前提となる機制の一つに数えられよう。

 招撫とは、中国史上のある政権がその統治下にない人々を「招き撫する」こと、すなわち、帰順させ、しかるべき待遇を与えることをいう。古くは後漢書に用例があり、招安・招降・宣撫・按撫など、これに類するさまざまな語で言表される。ただし、招撫を法制史的な観点から取り上げた研究はほぼないといってよく、その位置づけはいまひとつ明確ではない。
 帝政中国において人民が負担する租税徭役の賦課百般は、ひとえに彼らが王化に服すること、つまり王朝国家の支配下に帰服することから始まる。新たに成立する政権は、天命に基づく正統性を掲げ、武力による威圧をうしろだてとしながらも、招撫という手続きを通じてはじめて被治者たる良民を獲得しえた。また、「良民」の保護者たる王朝政府は、治下の「良民」がしばしば陥る反乱状態を、招撫という便法を用意せずしていかなる形で鎮定しえただろうか。
 今回の報告は、「招撫」およびこれに近接する諸概念について、史書の用例をあらためて検証し、その制度的な性格を明らかにする。官府による招撫政策が、王朝国家という政治体制にとっていかなる意味をもつのか、いくつかの鍵となる用例を選んで述べてみたい。

 

 

            

           17-18 世紀南アジアにおける東インド会社の現地雇用船員  
                      和田 郁子

 15 世紀後半からインド洋海域に進出したヨーロッパ勢力は、ほどなくして遠隔の地で失われた船員をいかにして補充するかという課題を抱えることとなった。その背景には、航海中およびアジアにおけるヨーロッパ人船員の高い死亡率があった。インド洋海域で活動するヨーロッパ諸勢力が共通して悩まされていた、この船員不足という問題に対して彼らが導入した方策が、現地アジアでの船員調達である。インド洋におけるヨーロッパ船は、いずれも早い段階から多かれ少なかれ現地雇用の船員に頼らざるを得ず、これは形を変えながら近代まで長期に亘って継続した。しかし、このことに関する従来の研究は近代に集中している。とくに南アジアで雇用された船員に関する研究は、帝国史や植民地史の観点から、イギリス船で搾取される労働者としての側面を強調するものが大半を占める。 
 これに対し、本報告では、17-18 世紀のイギリスおよびオランダの東インド会社船に見られた現地雇用船員、とくに南アジア人船員の実態について、具体的な事例を示しつつ考察を加える。南アジアにおける東インド会社による船員雇用の仕組み、船員の出自や立場などの分析を通して、多様な出自の人々が同乗していた船という場に光を当て、当時の南アジアとインド洋における接触と交流の諸相の一端を明らかにすることを目指したい。

 

 

 

                  19世紀イランの兵員徴用関係写本の検討
                ――アミーレ・キャビールの軍制改革をめぐって――

                        小澤 一郎

 本報告では、1850年代作成と推定される兵員徴用関連写本『軍隊の規律と兵員徴用』(イラン国立図書館所蔵)の分析を通じて、当時のイランの兵員徴用の制度的側面を具体的な史料の記述をもとに検討する。この写本の推定作成年代は、ガージャール朝(1796-1925)下での近代的軍隊創設の嚆矢と評価される宰相アミーレ・キャビール(職1848-51)の軍事改革に近い時期にあたる。このため本報告は、この軍事改革のより詳細な実態解明にも資すると考えられる。
 報告ではまず、『軍隊の規律と兵員徴用』の作成年代の検討を行い、1850年代にこの写本が作成された可能性を指摘する。そのうえで、写本の内容検討から当時の兵員徴用がいかなる形で構想されていたかを明らかにする。ここでは、兵員徴用の具体的な手続きについて確認するとともに、徴税額査定と徴用員数査定との連動を通じた兵員徴用の制度化への志向、主たる徴用対象地域である農村地域の内情と密接に関連する条項の存在、同時代の西ヨーロッパの徴兵のあり方との共通性などの事実を指摘する。そしてこれらの事実に基づき、この写本で規定された兵員徴用のあり方の評価を行う。さらにこの検討結果を、より後代の兵員徴用関連史料や西欧側文書史料の記述、そして報告者のこれまでの研究結果と対照させることで、その後の制度の変遷や、制度と実態との間に生じた乖離とその背景についても検討する。

 

            

朝鮮時代のアユ貢納と内水面環境

                       森平  雅彦 

 朝鮮における内水面環境とヒトの関係は、二〇〇九~一二年に韓国・李明博政権が推進した四大河川再生事業を契機として、改めて大きな社会問題となった。その一方で、この問題に関わる地に足のついた人文学知が十分に蓄積されているとはいえない状況である。特に歴史学の朝鮮史分野では、環境史研究がいまだ草創段階であることもあり、実証的研究が不足している。
 現在報告者は、多様な立場のヒトと、ヒト以外の多様なアクターが交錯するなか、ヒトの立場からみてある時は「資源」、ある時は「障害」となる諸要素が様々な形をとって内水面環境より発現し、ヒトビトがこれを受け止める営為が内水面環境と周辺の諸アクターに多様な作用を及ぼす複合的で循環的・相互的な連関関係の歴史を探ろうとしている。当面の中心課題は、生物資源獲得行為の一種としての漁撈である。内水面の生物資源は、かつては基本的な動物性タンパク源としての物質的価値のみならず、薬効への意識や、共食、遊興、祭祀、贈与、献上といった様々な場面で、社会的・文化的に、そして政治的にも、すこぶる重要な意義を有していたと考えられる。
 本報告では、朝鮮時代に最もポピュラーな採捕対象種だったアユ(銀口魚、銀唇)に注目し、特に朝廷への貢納という行為をめぐって内水面とその周辺で創発される諸アクター、環境諸要素のあいだの「絡まり合い」を観察してみたい。

 

 

 月曜クラブと一土会に集った女性たち

            ――日本YWCAとキリスト教矯風会の女性たちの思想と活動――

                       石川 照子

 本来人道主義を重んじ、国際主義の立場に立つキリスト教信仰を持った女性たちが、 1920年代から30年代において日中両国の関係が悪化してゆく中で、どのように中国と中国女性たちを理解し連帯しようとしたのか。本報告では、東京朝日新聞社初の女性記者である竹中繁(しげ)が中心となって組織し、女性たちによる中国女性との連帯と日中関係の改善を積極的に模索した、月曜クラブと一土会を取り上げる。
 両組織には河井道(子)、加藤タカ、上代たの(子)、久布白落実、ガントレット恒(子)、村岡花子、藤田たき、星野あい、竹中繁、高良とみ等、多くのキリスト教徒の女性たちが参加していた。その中で加藤タカらの日本YWCAと、久布白落実、ガントレット恒(子)らのキリスト教矯風会の、特に満洲事変前後の時期に焦点を当てて、その対中国観の変化を、両国関係の変動の中でたどってゆく。また、中国側の対日観についても中国YWCA、中国節制会を中心に考察し、日中双方から国際主義、ナショナリズム、ジェンダーの関係と葛藤について検討してゆきたい。
 なお、日本YWCAの機関誌『キリスト教女子青年界』とキリスト教矯風会の機関誌『婦人新報』を主な資料とするが、中国YWCAの機関誌『女青年』と中国節制会の機関誌『節制』『女声』も参照して、中国側の反応と見解を探ることとする。

 

    

                 清代における裁判記録管理の法的意義
             ――吏律公式「棄毀制書印信」条、条例を起点として――

                       鈴木 秀光

 現代日本において、裁判記録管理は憲法が定める「公開の原則」に即して理解されることがある。このことは、裁判記録管理について広く裁判制度の一環としてその法的意義の見地からも論じられるべきであることを示している。
 中国清代の裁判記録管理に関して、その規定として吏律公式「棄毀制書印信」条、条例が存在する。同条例は、従来から実務として行われていた裁判記録管理について国家が地方官の適切な交代を実現する見地から改めて規定したもので、未結事案と完結事案に分けて規定する一方、自理事案に比して上申の完結事案の扱いが不明瞭であった。
 自理事案の裁判記録管理は上司による州県の監督という文脈において現れるが、それは州県の審理内容の適否を確認するものではなく、完結数に着目して未結事案の完結を促すものであった。州県檔案の自理事案の一般的構成を考えると、その作成に法的根拠を見出せない遵依結状が含まれていたが、このことは遵依結状が当該事案の完結を明示する一形式と見なされたからであると考えられる。
 上申事案の裁判記録管理は具体的な規定が乏しいが、それは上申事案であれば処理過程で上司も関与することから、「いかに記録を管理するか」よりも「いかに上申文書を作成するか」に主眼が置かれたためと考えられる。そしてそうした上申文書は事案評価において律例規定を考慮した罪状の軽重の方向に落とし込むことが求められ、そのことにより時に州県檔案の上申事案において法廷審理までの段階と定擬段階との内容的な相違が生じることもあった。

 

 

               ゴール朝の「都」フィールーズクーフについて

                       稲葉 穣

 現在のアフガニスタン中央部を東から西に流れるヘラート川の右岸の山岳地帯は歴史的にゴール地方と呼ばれた。この地から12世紀に台頭したのがゴール朝で、1163年に即位したギヤース・アッディーン・ムハンマドと、後を継いだ弟ムイッズ・アッディーン・ムハンマドの時代、同朝は西はヘラートから東は北インドにおよぶ広大な領域を支配した。1215年、ホラズムシャー朝に「都」フィールーズクーフを攻め落とされ、同朝は滅亡したとされるが、このゴールの都フィールーズクーフについて、20世紀後半、それをゴール地方の南西部のタイワラに同定する説と、有名なミナレットが「発見」されたジャームにあてる説があった。後者は極めて狭隘な谷間にあり、その同定に疑問を唱える声もあったが、徐々にジャーム=フィールーズクーフとみなす研究者達が大勢を占めるようになった。発表者も1999年にこれについて小論を発表し、ジャーム=フィールーズクーフ説に立って論じたことがある。その後2001年にミナレットの現況調査を行った考古学者David Thomas率いるチームがミナレット周囲で多くの遺構を発見したことから、ジャーム説はさらに補強された。
 本報告では21世紀におけるフィールーズクーフ研究の進展を紹介した上で、ほぼ全ての研究者が「夏営地」であるとするフィールーズクーフに対して、「冬営地」がどこにあったのかを考察し、ゴール朝/シャンサバーニー家のそもそもの起源や、近年徐々に明らかになってきているイスラーム前夜のアフガニスタン史との関わりを論ずる。